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【映画】シン・ゴジラ 究極の「もしも〇〇だったら」

引っ越してから隣の駅にトーホーシネマズがあるので、わりとよく観に行くようになった。

一度映画を観ると、予告映像をしこたま見るのでだんだん他の作品も観たくなる。

それを数珠繋ぎ的に繋いでいたけど、これだけは繋がらないだろう…と思っていたのが、シン・ゴジラだった。

 

『シン・ゴジラ』特報2 - YouTube

だってこの予告が、1ミリも良くなさそうなんだもの

すべてのカットにB級感あるし、ほぼゴジラ突っ立ってるだけだし、何より石原さとみが振り返るカットが残念感を煽りすぎ。

さらに私は過去のゴジラ作品も一切見たことがないので、それはもう見る気はなかった。

 

しかし時が経つにつれてあれよあれよとツイッターは「見た、良かった」のコメントで埋め尽くされていき、さすがに無視していられない状況に。

マッドマックスの時はすっかりネタバレやパロディが出尽くした、遅すぎるタイミングで見たために鮮度ゼロの、回転寿司で廃棄寸前のかぴかぴのカニ握りを食べるような状態だったので、今度は旬を逃してはならない、と勇み足で(でもやっぱちょっと期待しちゃいけないと思いながら)レイトショーへ。

 

結果、

見た、良かった。

 

さすが庵野監督、

ひとがワクワクする要素をしっかりと握りながら、かつ人によってはシケる要素をきちんと避けて通っている。

 

描き尽くされたゴジラを2016年に邦画で改めて取り上げることのハードルを、「さんざん焦らした挙句に、観客たちの意表を完全に突く登場シーン」でさらりとかわす序盤。

 

そこから続々と、アニメでさんざん印象的な演出を作ってきた方だからこそ切り拓いた、実写の新たな可能性を目の当たりにする。

 

ただ会議してるだけ、話してるだけ、パソコンとにらめっこしてるだけのシーンを飽きさせないカメラワーク。

 

「目標が報告と違う」

「総理、ご決断を」

「お前が落ち着け」

なんどでも再現したくなる台詞たち。

 

キャラクターたちもいちいちアニメちっくなんだけど、無駄な御涙頂戴や恋愛や家族ものは省いて、ただただ仕事をする職業人たちを描いている。

 

そして、日本とアメリカ、過去と現在をつなぎ、ゴジラ鎮静化のヒントを握る最もキーとなる存在の鮮やかな配置。

 

それを演じる純日本人顔で次期大統領のオーラはお世辞にもあるとは言えない石原さとみ

なぜECCがもっと大々的にタイアップしないのか、不思議でならない。「急なハーフ役のオファーが!そんな時にECC!」みたいな小林製薬みたいなCMが多くの人の頭に流れたに違いない。

 

そしてクライマックス、夢のようなヤシオリ作戦の内容。

鮮やかなる在来線!!! あっぱれ!!!

「なーなー、もしいま東京にゴジラ来たらどうする?」の妄想遊びを、至極真面目に具現化したこの映像は、もうこれが作れたというそのことに拍手を送りたい。

 

人によっては「ゴジラは核廃棄物から生まれた哀しい生き物だ。愚かな人間が生んだゴジラを葬る時の同情と反省が足りない」という評もあったけど、私はこの結末にこそ、その反省が描かれていていいと思った。

近代国家の核廃棄物を食べて育ったゴジラが、その根源たる都市を襲う。

それは国家中枢が、都市が、海という自然に被せたしわ寄せの精算なのだ。

それは「近代都市国家の構造」そのものに精算を迫るものであるから、軍事力が解決できるものであるはずがない。少なくとも、都市を傷つけずにゴジラだけを傷つけるということは、通用しない。

そして人間たちは苦闘の末、都市の力、都市の犠牲によってゴジラに打ち勝ち、そして都市自身が、ゴジラ鎮圧以降もその責任を負い続けなければならなくなる。

私がこの映画が本当に深くてよくできてると思ったのは、なによりもこの、「愚かな人間が生んだ核の生き物」と最終的に人間がどう向き合うのか、向き合わざるをえなくなるのか、の着地点が、薄っぺらいご都合主義なヒーロードラマに終わらなかったことだ。

 

だから作戦遂行後、みんな諸手を挙げて「やったー!」ではなく、いったんの節目を迎えた「安堵のため息」しか出ないのだ。

 

なんだかもう、こんなにエンタテイニングでかつ社会的教訓の深い映画だとは、期待を裏切りすぎである。

私のなかで社会派エンタテイメント映画の権化といえば風の谷のナウシカなのだが、シン・ゴジラはそれに並ぶかもしれない。ビレバンナウシカの漫画全巻セットの手書きポップに「これを読むのは日本国民の義務」というのがあって、ほんそれ!と思っていたけど、これもまた「日本国民の義務」、いや「世界市民の義務」と言いたい。

 

ちなみに私は過去作を知らないけど、ゴジラ作品のファンならさらにグッとくる要素もあるんじゃないかと思う。ファンでなくても、オープニングや音楽は過去のものをそのまま踏襲してるんだな、というのは分かった。

その踏襲がまた、先達たちへの敬礼のような、明確だけど静かなリスペクトを表しているようで、こうやってゴジラを愛する人たちによってゴジラは受け継がれてきたのかな、と厳粛な気持ちになった。

 

我ながら意外なほどに褒めすぎてる気がするけど、ツッコミどころも別にないわけではなくて、

・尻尾って地面につけてバランスとるもんとちゃうの(ましてやあれだけの自重の生き物なら) とか、

自衛隊の命中率よすぎやろ とか、

石原さとみ とか、

あるのはあるけど(特に3点目)、でもそんなことはもう、いいんです。

 

あの在来線のシーンがループで見続けたいぐらい名シーンだったこと、

素晴らしい社会派映画だったこと、

それだけでもう、いいんです。

 

ちなみに作者がそういう社会的なメッセージをこれに込めたかは分からないし、もっというと「安倍政権批判が…」「アメリカへの見解が…」という見方をする人もいるようですが、

基本的には私はやっぱり、無垢な少年の「もしもゴジラが来たら、の妄想遊び」が作品の根底だと思いたい。

核がとかアメリカがとか、上述の社会性とかそういう話は、その妄想の過程で語られた枝葉にすぎない、と。それらは教訓ではあっても、主題ではない。

 

妄想を具現化する。

 

それこそ、実写映画の根本の面白さじゃないかと思う。

その面白さに改めて気付かせてくれたシン・ゴジラは、やはり偉大だ。