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【社会学#5】ジャーナリズムの国家戦略

あまりリアルタイムに書くといろいろな気持ちになる人がいると思ったので、少し時間を置きました。

イスラム国による脅迫・殺害事件。

 

「イスラム国」事件における自己責任論と、個人を侵食する全体主義について 文/ 角幡唯介(ノンフィクション作家、探検家) | 現代ノンフィクション | 現代ビジネス [講談社]

 

こちらの記事にも多少つながる話として。

全体主義/個人主義」「自己責任論/国家責任論」みたいなことは、複雑な問題でまだ自分で消化できていないので、ここではあえて置いておくとして、今後のことが案じられるという話を。

 

結論から言うと、国家戦略として、ジャーナリズムは抑制すべきでないのでは、と思うのです。

確かに今回、個人のジャーナリストの行動によって、大きな騒ぎに、国の安全を脅かす事態になりました。

しかし、これからこの事態を悪化させない方法は、抑制ではなく、解放だと思うのです。

 

たいていのものごとにおいて、「ひとつに絞る」ことは大きなリスクを伴います。

多くの選択肢・手段・ルートを置くことで、リスク分散になる。(自由・解放・多様性が人間の生存戦略であることは、【社会学#2】でも触れました。リンクは末尾)

国が抑制に走りたくなるのは十分に理解できるけれども、それでは、日本という国のグローバルの土俵に立ったときの脆弱性は、全く解決しないと思うのです。日本が鎖国をとりやめたという歴史的事実に、私たちはある程度、学ぶべきだと思うのです。(ものの本によると、鎖国時代が太平を存続させたと評価する向きもあるが一方で、その時代は飢饉も多く栄養状態も悪く、男性の平均身長も低かった、という記述も。)

 

つねに、力学は、左と右・上と下・中と外といった、極所どうしが遠くに反発しあったり、時に引き合うことで「平」を保ちます。(平=平和、平穏、平行、平常、平静)

いま、「国家」という極所だけに国の安全を託すのは非常に危険だと思うのです。大きな「国、行政」に反する「個人」というものの動きがあって、はじめてバランスが保たれる。

国はジャーナリズムを抑制するのではなく、国という単位に縛られずに、地道で、目立たず、身軽にどこへでも行ける「個人」のジャーナリズムを、解放して味方につけるべきだと思うのです。

ジャーナリスト個人の人間的魅力やコミュニケーション力によって、するりするりと相手国なり相手組織の目をくぐって、現地の人や、相手側に属する人とリレーションを作り、相手サイドの「生」の情報を掴んでもらうこと。それが、ゆくゆくは国の大きな力になると思うのです。(スパイ活動に近いのかしら…)

今回、政府はがんばってます的な美辞麗句を述べ連ねながらも、結局は現場の位置を特定して乗り込むこともできず、方々との交渉も取りまとめられなかったのは、そういった地道で築かれるべきリレーションが、そこから得られる情報が欠如していたことも起因しているのではないでしょうか。

 

もちろんそういった活動を個人に全て任せるのではなくて、国家の力と個人の力、両方があって、様々な対応策が練られるようになると思うのです。(そのような立ち回りのきくジャーナリストを今の社会が育成できるかどうか、は、また複雑な問題ですが。)

 

たとえば日本の街中で、外国(アメリカでも中国でもいいです)のジャーナリストが、取材させてくださいと声をかけてきたとして、

「フリーのジャーナリストなんですけど」と名乗られるのと

「我が国の最大手新聞社の、ジャーナリストなんですけど」と名乗られるのと

「〜〜派の新聞社のジャーナリストなんですけど」と名乗られるのと

「国から承認を受けて派遣されたジャーナリストなんですけど」と名乗られるのでは全く、こちら側の受け方も、相手への対応も、変わってくるはずです。

それが今、最後のひとつしか言えない(相手側にはそう受け取られかねない)状態に近づいてしまっているのではないでしょうか。いろいろあった方が、いろいろな人の話を聞けるのではないでしょうか。

 

そもそも中立的なジャーナリズムを実現できない国家が、他の大国と対等に評価されるでしょうか。

 

これに限らず、このところ「国家」ばかりが先走って「個人」が抑制されているような動きが多いように感じられたので、そのうちのひとつの例として、

政治や外交やジャーナリズムの世界には全く疎いので議論の余地は多く残しているかもしれませんが、素人なりに思ったことを記しておきます。

 

(文中で触れていた過去記事はこちら) 

【社会学#2】人間の生きるみち - ho - jun