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芳醇/豊潤 ・ 小説と漫画創作 ・ 本と映画レビュー ・ 初心者社会学

翁のかお

なんせ古い長屋なのだし、なにが出たっておかしくはないのだ。
冬になるとそれは現れた。布団に入って目を閉じると、何かの顔が、真っ暗な視界の中に現れる。誰のものだかわからない顔。それは、時にはしわくちゃなおじいさんの顔で、時には、つるつるの陶器のような女性の顔だったりした。能に出てくる面のような顔。
それが閉じた瞼の中に現れて、私は、不気味だと感じはしたが大して気にしないようにしていた。ああ、今日は翁の顔だな。今日はおかめだな。そう思っているうちに眠りに落ちていた。
それが何かということも考えないうちに、私は家を出て、それからは冬の布団の中でもその顔を見なくなった。そのときにはもう、見なくなったことにすら気づかないほど、それは意識の外に投げ出されていた。


結婚が決まったとき、いくら疎遠な家族といえども報告くらいはと、久々に実家に帰った。例年よりも寒さの厳しい冬だったが、雪は降らず、みぞれだけが降った。
ぺたんこのかつての私の布団ではなく、ふかふかの客用布団で寝た。田舎の夜は静かで、かえって暖房の懸命に温風を吐き出す音がうるさかった。
閉じた私の瞼では、しわまみれの顔が、こちらを見て笑っていた。
私は長く忘れていた友人に会うような気持ちで、その顔と対峙していた。
そうだった、思い出した。忘れててごめん。
心でつぶやくと、その顔は消えていった。私は眠りに落ちていた。


昔の私ではわからなかった。
その、誰だかわからない顔の持ち主は、きっと、孤独な夜の私を、ずっと守っていてくれたのだ。
どうしてそう思うのかわからないが、そうだと、8年が経ってはじめてわかった。


私に子どもができてからは、いつ帰っても、もうその顔に出会うことはなくなった。