読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ho - jun

芳醇/豊潤 ・ 小説と漫画創作 ・ 本と映画レビュー ・ 初心者社会学

頭上のハイヒール

小説

真上の部屋には、きっと外国人の女性が住んでいる。

築10年以上のアパートは、上の階の物音がよく響く。
ぼくの頭上では、固い靴が床を叩く音が、1日鳴っている。
おそらく、家の中でも、かかとの高い靴を脱ぐことができないのだ。もとが古い安アパートなので、大家も気にしなかったらしい。

煙草のヤニで染まった天井は、コツ、コツコツとくぐもり気味に、主人の暮らしを伝達する。

廊下へ向かってコツ、コツコツ、ベランダへとコツ、コツコツ。
掃除機をかけるときには、ローラーの音が追随する。
廊下へ出て、音が消えれば外出。
(出掛ける時間はいつも長くて、一度出るとなかなか帰らない。きっと買い物に優柔不断なタイプ。)

そのヒールの音は、挑発的に背伸びをさせる、真っ赤な靴を連想させる。
彼女の肌は白く、髪の毛は乱れがちなブロンドで、靴と同じ赤いクチベニをひいている。
長くて細い足をゆったりと動かして歩く。しっかりと浮き出た踝。
生活リズムは正確だが、どちらかというとのんびりした性格。変化を求めず、若い男にも惑わされず、この小さな箱の中の四角いベッドで見る幼稚な夢を食べて生きている。
大人の器の中に、もてあまし気味に泳ぐ無邪気な自我。

ぼくは一度でも、彼女の姿を認めることを望んでいた。
フロアに3室しかない小さなアパートなのに、不思議となかなか他の住人に会うことがない。
…いや、問題は偶然のいたずらによるすれ違いではなく、想像でこしらえた彼女に形を与えることを恐れる、ぼく自身の矛盾なのだ。

日曜日の昼下がり、それはもうおそろしいほどによく晴れた日、ぼくはついに決心をした。
彼女がコツコツと廊下に向かったのを聞き届けて、ぼくもエレベーターに乗った。
降りてくるエレベーターの窓を見るのにぼくの胸は甘くかつ感傷的にうずいたが、しかし来てみるとそこには、腰の曲がったお年寄りが乗っているだけだった。
おや、と思うぼくに気遣いもなく、エレベーターは開いてぼくを招き入れる。老人は丁寧に脇に避けてぼくを通した。

ハイヒールの彼女は。
忘れ物に気づいて、部屋に引き返してしまったのだろうか。
外が意外に寒くて、コートを羽織ることにしたのかもしれない。

気が逸ってチャンスを逃したぼく自信に腹が立つと同時に、安心もしていた。
彼女は今日もまだ、夢を見続ける無垢な少女のままだ。
もしかすると、見ない方が幸せなのだと、偶然のいたずらがぼくに図ってくれたのかもしれない。

エレベーターが1階につくと、杖をつく老人のために、ぼくは開ボタンを押してあげた。