旅するトナカイ

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書棚の少女―前―

ぼくにとって本は、無限の可能性を秘める魔法だった。
そこを開けば、自分の知らないあらゆる世界が、その住人達が、そこに吹く風や流れる音楽、ロマンやドラマが、全て立ち現われてくる。
そのページが茶色くくすんでいればいるほど、その物語は色鮮やかで光あふれているのだった。


ぼくは高校生活のほとんどの時間を、図書館で過ごしていると言っていい。
小学校の国語の授業で「やまなし」を呼んで以来、ぼくは小説、なかでも自分が生まれるよりずっと昔の小説に、すっかりはまりこんでいた。
休み時間のたびに階下の図書館へ駆け込んで日本文学の棚を漁るのがぼくの日課となり、それは二学期に入って更に重度になった。というのも、夏休み前、貸出冊数いっぱいに本を借りていたぼくは、期末テストに構ってすっかり返却期限のことを忘れ、そのまま夏休みを越してしまったため、重い貸し出し制限を科されることになったのだ。それでぼくは本を借りる代わりに、授業時間以外の全ての時間を図書館で本を読んで過ごすようになった。


もう蝉の声が遠くなった日、ぼくは目当ての本を棚から引き出すと、いつものように一番人影が少なくひっそりとした席を探した。頭の中に広がるイマジネーションの世界を、誰にも邪魔されたくないからだ。
その日はテストも数週間後に迫り、問題集を広げる生徒の数がいつもよりも多く見られた。しかし、部屋の奥の、他よりも日差しの当たりが弱く薄暗くなったテーブルのあたりだけは、眠ったように静かで、その静寂がぼくを呼び寄せているように感じられた。
早速ぼくは本を広げ、その埃っぽい匂いを喉まで感じながら文字を追っていった。さっきまで聞こえていたサッカー部の掛け声や、野球部のバットがボールを弾く音などは、たちまち耳に届かなくなる。太陽が傾いて住宅街の向こうへ消えていくのも、なにもかも忘れてしまう。


別に、何か物音がしたわけでもなければ、目の前の景色が変わったわけでもない。なのになぜか、ぼくの脳内に広がっていた世界が途端にぷつりと途絶え、ぼくはふいと顔をあげた。
目線の先にはR子が座っていた。
2つ向こうのテーブルで顔を伏せて、まさに鞄から教科書や筆箱を取り出していたところの彼女の姿が、ぼくの眼には3倍くらいに大きくなって映った。西日が彼女の顔に影を落とし、睫毛の長さを強調している。二つに縛った彼女の髪は教室で見るより茶色がかっている。
溜まらずにぼくは、あわてて席を立った。そして読みかけの本を胸に抱えると、すぐ隣の本棚の影に身を隠した。
生徒たちがページをめくる音や、何かを紙に書きつける音の中にも、R子の立てる物音がはっきりと聴き分けられた。そして、早鐘を打つぼくの心臓。
本棚の影からもう一度、R子の姿を伺ってみる。彼女はどうやら英語の勉強をしているらしい。彼女の指が辞書のページを滑らせると、それは扇のように美しい曲線を描いて流れてゆく。ぼくは思わず長い溜息を洩らすが、相変わらず心臓はうるさく鳴っている。


「何しているの」
突如聞こえた声にぼくは飛び上がった。見ると、並んだ本棚の間に、おそらく同学年であろう少女が立っている。見たことのない顔だった。少女は手にしていた本を閉じて、書棚の空いた隙間にそれを埋めた。
「えっ…」
ぼくは答えに詰まって狼狽した。本を返そうと、と言おうと思ったが、しかしこの列がどんな種類の本の棚なのかもわからないことに気付き、左右にぎっしりと並ぶ茶色びた本の表紙を目で追った。見たことのない題名ばかりだったが、どうやら古典文学であるらしい。
「珍しい。ここに人が来るなんて」
そう言って少女は、高くそびえる棚で眠るような、しかし古来からのきらびやかな物語を秘めた本を見上げた。
(ここ…?)
そう思ってぼくは、本棚の側面に張ってあるプレートを覗いた。そこには「D−105」とあった。