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ho - jun

芳醇/豊潤 ・ 小説と漫画創作 ・ 本と映画レビュー ・ 初心者社会学

【社会学】世界が内向的になっている気がする

あまり政治的なこと書くのって、ネットの熱めな人たちに熱めに詰められそうなので基本的には避けてるのですが、ツイッターとかよりも読者数の少ないブログの方が安心なのでひっそり書きます。

先に言っておきますが私は無宗教、支持政党なし、政治無関心層です。選挙行くのもめんどくさい、っていうかそれぞれの候補者とか政党の方針や政策を調べるのがめんどくさい。政治ニュースとかネットの書き込みとかは見るけど、ちゃんとソースを当たるのは面倒なのでやってないので、大いにバイアスがかかってたり誤認してる部分はあるかもしれません。悪しからず。

めんどくさいって話でいうと、選挙も政党とか候補者を選ぶんじゃなくて、やってほしいこと・やってほしくないことを選ぶ形になればいいのになって思う。だって人とか党とかって腹の底で何考えてるかわかんないし。誰でもいいから、やってほしいことを実現してくれればそれでいい。まぁそんなことはともかく。

 

 

アメリカでトランプ大統領が就任してからずいぶん経ちました。

私のSNS上のアメリカ人の知り合いは、この世の終わりみたいに落ち込んでたし、

本人が落ち込んでなくても「みんな、この世の終わりじゃないんだよ」「SNSで嘆いてばかりじゃなく、いつもみたいに家族や旅行の幸せそうな投稿を見せておくれ」みたいな投稿をしてて、私の知り合いのアメリカ人の、そのまた知り合いたちがこぞって落ち込んでいるんだろうなと想像できた。

あと好きなバンドが「僕らのライブ会場では、断じて、あらゆる人種・宗教・信条を歓迎するからね」みたいなメッセージをファンに向けて発信していた。

しばらく経っても未だにトランプを皮肉った投稿を見かけるし、よほどアメリカ人にはショッキングなことだったんだな、と思う。

 

聞いた話では、西海岸・東海岸の成熟している都市部はトランプに反対していて、中部の発展が緩く雇用の足りない田舎がトランプを支持したとか。自由や多様性という上位概念を求める声を、生活するための仕事と金がないと死ぬ、っていう切迫感が上回るのは想像に難くない。

トランプが「アメリカ・ファースト」を唱えるのを聞いて、私は「あ、アメリカはようやく『普通の国』になったんだな」と思った。

自分の国のことを考え、自分の国の国民のことを考え、自分の国のために行動する国。

 

これまでアメリカは、世界の理想だった。

世界の国々が、人々が、何を理想として何を目指していけばいいかを体現していた。

それは、自由で、差別がなく、平等にチャンスが与えられ、そのチャンスをつかんだものは富を手にすることができる自由主義、意志が等しく反映される民主主義社会。

世界最大のチャンスはニューヨークやロサンゼルスにあり、そこで勝ち進んでいったものはセレブリティとして世界中から憧れられる。

理想の国には全てがあり、理想の国の住民のセレブたちには世界から賞賛が浴びせられる。

 

なぜ、アメリカが理想の国となったか。

それはアメリカの歴史の浅さによると思う。

ヨーロッパやアジアには、数千年に渡る長い建国の歴史があった。その中で培われた国民性や伝統、主義、誇りがある。

そのヨーロッパを離れた人たちが作り上げたアメリカという国が国際社会で一目置かれるためには、それらの「歴史」に代わるものが必要だった。それが「未来」であり「理想」である。

歴史・伝統は、裏を返せばしがらみだらけの窮屈な社会だ。

新国アメリカは、そんな煩わしさから開放されて、誰もが誰にでもなれる世界になることにした。しがらみだらけのヨーロッパやアジアには絶対に真似できないから、羨望のまなざしで見られる。足かせに捉えられてチャレンジできないヨーロッパ・アジアを差し置いてアメリカはチャレンジできる。そして「あなたたちはしがらみによって実現できないが、理想とする国際社会ってこういう姿勢でしょ」と示すことができる。すると自国の歴史を愛する他の国々も「確かに、それが正しい未来だな」と頷く。アメリカの国際的な地位が確固たるものになる。

国際社会での存在感を示すために、アメリカは理想の国とならざるをえなかった。

 

アメリカが体現する「理想」を崩されてしまっては、アメリカの影響力がなくなる。

それが困るから、アメリカは必死になって自由主義・民主主義の正当性を守ろうとする。共産主義は悪だという世論を作り、実際に共産主義では国が倒れることを示すために他国の内紛に介入したりする。やっぱり民主主義が国民が求める理想の形なんだな、民主主義・自由主義が勝つんだな、とその度に世界の人々は思う。(学者の間では「共産主義は負けたけれども考え方自体は悪くない」という声も出ているらしいけど。)

 

そうやって、アメリカはいつも「理想の国」として他国に介入し、国際社会をリードしてきた。

国民の日々の生活や安定した暮らしには目もくれず、アメリカという国が輝かしく見えることをやってきた。

 

そしてそのピークが、オバマ大統領時代だったのだろう。

国際社会の自由と平等と平和を唱える者が、アメリカという国の大統領に君臨している。

理想の国・アメリカはここに、少なくとも現時点ではこれを超えられないほどの「理想」を完成してしまった。

それでもまだ解決しない問題は多く、「理想」があまねく全てを照らしてくれる光ではないことにも人々は気づいた。

 

アメリカはもう、そろそろ世界のことではなく、自分のことを考える頃合いなのだと思う。

「理想の国」にならなくても歴史ある国に引けを取らない国力を蓄え、歴史を蓄えた。自由とチャンスを求めて国を捨てた人が子供を育て、孫を持ち、アメリカに生まれて一生をアメリカで過ごす「アメリカ人」の世代が現れる。これまでは「チャンスが欲しければアメリカに来い、しかし勝っても負けても自己責任だ」と言えたけど、そんなリスクを背負った覚えのない生粋の「アメリカ人」たちにはそれが通用しない。アメリカにもしがらみが生まれたのだ。

そのしがらみは、自国に「理想の国」であることよりも、現実的に生き易い国であることを求める。

普通に、生まれて、一生を平穏無事に過ごせたらいいなって思う普通の人たちの、普通に幸せな暮らしを求める声が多数を占めるようになったのだ。

 

そう考えると、トランプは確かに奇抜で極端だけど、アメリカ人たちがこの世の終わりだと絶望するほどおかしなことが起こっているわけではなく、自然な成り行きのような気がする。

彼の大統領就任は、アメリカという国が世界のワンオブゼムとなった瞬間であり、理想を追い求めて連携していた国際社会が今一度、何で連携するのかを見つめ直す瞬間だったのではないか。

 

折しも、北朝鮮が存在感をアピールしたり、同時多発的に各国で「自分のこと」への立ち返りが始まっているかもしれない。

内向的に、内省的に。

日本国内にも内省的な流れがあると思う。働き方改革が始まって、経済成長よりも日々の暮らしの質を見直している。オリンピックが地元に来るという「理想のイベント」に対する興奮よりも、日本にとってのメリットや費用など現実目線で国民がツッコミを入れている。

どんどん変化("CHANGE")を起こすことよりも、自分の足元の大切なものを今一度見つめる。

打ち合わせの前の一人ブレストみたいな感じで、それは多分、必要な過程だ。

 

たいていの歴史は、一定周期で両極を揺れ動くものだという。

これまでも、国際連携に目を向けていた時期、自国に集中していた時期を行ったり来たりしていたのだとすれば、今は後者の時期が始まったのかもしれない。

 

最近ではトランプ大統領を解任するかどうかという話も出てきているし、どうなるか分からないけど。

 

 

 

【映画】10年ぶりに観た「ニュー・シネマ・パラダイス」

言わずと知れた名作ニュー・シネマ・パラダイスを初めて見てから10年が経って、また観てみた。

 

イタリアの片田舎の村で、唯一の娯楽である「映画」に魅了された少年・トトの半生を描く作品。

 

 

早々に話は逸れるが、いま映画館でメトロポリタン・オペラのライブビューイングがあるのをご存知だろうか。

www.shochiku.co.jp

オペラにはあまり詳しくないのだけど、知人の誘いで「エフゲニー・オネーギン」というチャイコフスキーの演目を見て、あまりに感動し、ふとニュー・シネマ・パラダイスを思い出してまたまたhuluにお世話になって10年ぶりに再視聴した。

 

しかし。

 

huluに上がっているのは通常盤ニュー・シネマ・パラダイス

私が10年前に見たのは「完全オリジナル版」。忘れもしない、当時TSUTAYA DISCASにあったのがそれだけだったのだ。

 

ニュー・シネマ・パラダイスはもともと175分、そう、実に3時間もある超大作なのだが、全世界での上映に際しては約50分をカットして124分の観やすい長さに短縮された。

2時間以上の映画は観客が座ってられないので正しい判断だったし、テーマを絞ったことによってこの映画は「映画を愛する全ての人に贈られる映画賛歌」としてアカデミー賞にも輝き歴史に名を残す。

その後、やっぱりってことで175分バージョンも世に現れた。それが「完全オリジナル版」。

「通常盤」と「完全オリジナル版」の違いを簡単にいうと、

「通常盤」は、映画に魅せられた少年・トトと、師匠である映画技師・アルフレード師弟愛・友情・映画を愛する者同士の心のつながり、を描いた作品。

「完全オリジナル版」にはそれに加えて、はかない青春時代の初恋のノスタルジーをたっぷり1時間もかけてトッピング。

 

ピュアな友情物語に古典的なラブストーリーを乗っけたこのトッピングには賛否両論で、当時、私は御多分に洩れず「否」の側だった。

今は亡き(亡くなってはいない)mixiに当時レビューを書いたのを克明に覚えていて、ここに再掲してないかと遡ったけどなかった。そこには、そのトッピングたる「ラブストーリー要素」が完全なる蛇足、それがあることによって主人公トトの人間性や性格が疑われるし、ない方が良かった、と書いたはずである。おそらく「通常盤」からこの作品に入った人の批判の多くもこういうことだっただろうと思う。

そのレビューにはまた、「人生のいろんなステージで見るごとに印象が変わる映画だと思うから、数年後にまた観たい」と書いた。その「また」が、今である。

 

残念ながら当時と全く同じ「完全オリジナル版」で観ることはできなかったのだけど、でもそれによって、あんなに蛇足だと思っていた1時間こそが、今の私が観たかったものだ、という180度真逆の印象になっていたのだから、10年間の時を経て通常盤を観たのは間違いではなかったのだ。

 

確かに、完全版での追加要素は、映画のテーマをぶらしてしまう蛇足かもしれない。向こう見ずな一時の恋愛感情に身をまかせる行為は愚かしいし、いかにもなよくある映画っぽくて陳腐かもしれない。

でもあの完全版を観てしまった以上、初恋・エレナとの顛末を語らなければ、トトの人生について語ったことにならないのだ。

トトが故郷に帰らなかった30年間の間、そこに何を置いてきていたのか。トトの将来を応援するアルフレードがどれほど強い意志で、どれほどの犠牲を強いてきたのか。なぜ成功を収めたトトが、男としての幸せを手にしようとしないのか。母がなぜそんな彼に優しい母親の目線を送ることができるのか。

アルフレードの「形見」が、トトを未来へと背中を押してくれる応援者だとすれば、初恋のエレナはトトを過去へと連れ戻す亡霊だ。自分をどこまでもどこまでも遠くへ飛ばしてくれるものと、暗い地上へと引きずり下ろすもの。故郷を捨てて30年経ったトトが、それらとどう対峙するのか。二つの引力の間でもがく姿にこそ、醜い人の生き様が現れる。

 

そこまで深く考えなかったとしてもごくごく単純に、いろんなシーンの点と点が線でつながる瞬間の、謎が解けたみたいな気持ち良さは、やっぱり完全オリジナル版の方が圧倒的に気持ちがいい。アルフレードに師事するシーンの数々が伏線となって、エレナとの恋愛シーンに影響している。通常盤だと、その伏線が回収されない感じがしてウズウズしてしまう。

 

そして目に焼き付いているシーンの多くは、結局のところカットされたシーンの数々なのだ。

壁に映写したエレナに愛を囁くトト。

観客席での童貞喪失。

兵士の寓話の結末。

エレナの置き書きと、検品書の種明かし。

「愛のテーマ」が鳴り響く中で、車中のキス。

 

それが見たくて、私はまたこの映画を探したはずなのに。

そこにこそ、「エフゲニー・オネーギン」の追体験を期待したのに。

 

とても残念だけど、でもこの残念な気持ちになったことが、今回の収穫だった。

 

あと爆破シーンで変わらず泣いたけど、今回は館長の顔を見て、彼の人生に思いを馳せて泣いた。

 

 

次はまた数年後、

その時はどんな気持ちでこの映画を観るだろうか。

また楽しみの有効期限が更新された。

 

 

 

【雑記】言葉のドラマ、ビジュアルのドラマ

huluで海外ドラマにハマる時期がある。

www.hulu.jp

 

目当ての映画を見るならツタヤの方が確実だけど、ドラマを見るなら断然、定額の動画配信サービスが安心。Netflixも気にはなるけど、huluでさえそこまでヘビーに使っているわけではないので乗り換えるほどでもないので一旦キープ。

毎月きっちり利用しているわけではないけど、ドラマの一気見をする時は、元とったー!って思う。

 

私は海外ドラマについて熱心に語れるほど、海外ドラマに詳しいわけではない。

むしろ海外ドラマには多分ちょっと疎い。

 

というのも、私が同世代の話についていけないコンプレックス作品がこちら

フルハウス 1st シーズン 前半セット(1?11話収録) [DVD]

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 フルハウス

 

みなさんどうやら幼少期にこのドラマを見て育ったらしい。今でもオープニング曲を聞くとテンションが上がったりするようだ。

私は日本語吹き替えの感じが好きになれなくて、海外ドラマは見ていなかった。アニメとか見てる方が楽しかった。ポケモンが見たかったけど公文の時間と被っていて見れなかったのが悲しかった。でもそのおかげでポリゴン事件は免れた。

 

そんな私の海外ドラマデビューは、Mr. Bean

Mr.ビーン!VOL.1 [DVD]

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 笑いが万国共通であることを知り、人を笑わすことに言葉はいらないということを知った。

 

でもこれ以外の海外ドラマにはこれといって触れず、周りでも海外ドラマブームが特に起こらないままに大人になった。

近年、様々な海外ドラマが人気を博しているのは、定額動画配信サービスの登場と関係が深いのではないかと思う。

 

さて、私がhuluでハマった海外ドラマは主に2作品。

 

 glee

アメリカにある高校のグリークラブの講師と生徒たちが繰り広げるハイスクールコメディ。スクールカースト最下層とされるグリークラブ(最上層はアメフト部とチアリーダー)のメンバーが、あれこれのトラブルが起こってはノリノリの歌で乗り越えていく。

 

そしてもう一つ、 

セックス・アンド・ザ・シティ

言わずと知れたアラサー〜アラフィフ女性の人生のバイブル。

ニューヨークの仲良し4人組のそれぞれの恋愛模様を通じて、大人の恋や人生について鋭く斬る。

 

gleeを見たきっかけは、仕事で必要に駆られて英語の勉強をしたかったから。

英語自体は英辞郎を駆使すればなんとかなるが、日常会話で冗談を交わしたり、交わさないまでも会話の最中に今笑うところなのかどうかを察知できるようになるには、やはり文化を知る必要がある。

アメリカ人の話を理解しようとすると、アメリカ人の文化的背景ーどんなものを見て育ったのか、幼少期に何が流行ったのか、どういう人生の経路が一般的なのか、誰もが経験する失敗や成功とはなんなのかーそういったことが分からないとアメリカンジョークは分からない。よく芸人のお笑い論で「常識を壊すことで笑いが生まれる」というけど、海外の「常識」が分からないと、壊しているかどうかが分からない。

そこで、アメリカ人にとってのジョークとか青春時代の生活について知ろうと思い、gleeを選んだ。

 

結論から言うと、勉強としてはそこまで効果を発揮しなかった。

コメディショーとしてのデフォルトがきつすぎて、これがアメリカンハイスクールの常識かどうか測りかねてばかりいた。

ただめちゃくちゃハマって仕事から帰ったらgleeを観ることしか考えられなくて睡眠時間を削ってでもgleeを観たり、たまにhuluの通信トラブルか視聴できない話があったりしてブチ切れたりする程度にはお世話になった。

 

そこから時間は経って、アラサーにもなったしアラサーらしいものを観ておくか、と思って見始めたのがセックス・アンド・ザ・シティ

paramount.nbcuni.co.jp

こちらが意外にも、英語の勉強になった。

もちろんこれも誇張は多いと思うので、どこまでこれを信じていいのか…というのはあるけれども、大人のアメリカ人の会話としてリアリティがある。道でばったり知り合いに会った時の挨拶とか、気まずい雰囲気になった時の切り上げ方とか、重要な話の切り出し方とか。

 

何よりもこのドラマの助かるところは、ながら視聴に向いていること。

というのも、このドラマの設定として、コラムニストの主人公が身の回りの出来事をコラムにしていて、そのコラムをたどるように映像も展開し、シーンの合間合間にナレーションが入ったり、コラムニストならではの上手い言い回しや言葉遊びが登場する。

ナレーションと大人同士の会話(主に女子会トーク)で話が進むので、映像をずっと観ていなくても何が起こっているかだいたいわかる。他の作業をしていても、耳さえ貸していれば話についていける。流してさえいれば常に英語を聞いている感覚になる。

 

逆に、gleeは映像を見ていないと話についていけない。言葉以外の、映像や効果音で語る部分が多い。

誰がどこにいて、どんな表情をしているかで、「これはトラブルが起こるぞ」とか「このキャラはこいつのことをこう思ってるぞ」というのがわかる。

だから子供でも楽しめるし、言語に堪能でなくても理解できる。

Mr. Beanやフルハウスもそうだが、こういうビジュアルのドラマは、多くの人に理解しやすく、また分かりやすさ・ウケやすさが先に来るのでトンデモな登場人物、非現実的なハプニングも多い。

言葉が少なく、デフォルトが強いので英語の勉強にもあまり向かない。

 

SATCは、言葉を中心に話が進んでいくので、言葉が理解できて、言葉遊びや言葉を使った笑いが分かることが前提になっている。ダイナミックな映像やぶっ飛んだ演出が登場するわけでもないので、おそらく子供受けもしないだろう。(その分、ニューヨークのトレンディなスポットやファッションをふんだんに取り入れることで、大人の目を楽しませている。)

そういう意味で大人向けだし、ナレーションを多用しているのも家事や仕事が常にあってテレビ画面ばかり凝視していられない大人にぴったり。ちなみにデスパレートな妻たちも同じナレーションスタイルをとっている。

幼少期に私がXファイルを全く楽しめなかったのも、おそらく英語が未熟な子供にとってビジュアルでの説明が少なすぎたからだろう。

 

私が見ている海外ドラマが数少ないので他の例を豊富にあげることができないのが残念だけど、ユルく笑うならビジュアルのドラマ、英語を勉強するなら言葉のドラマ。

 

 

 

ところで、SATCのMr. ビッグがミスタービーンにしか見えないのは私だけだろうか。

【書籍】湊かなえ「母性」 - 「母性」なんてものはない

先日の記事(↓)で書いた「森に眠る魚」で母親モノにヤられたので、もう少し読み漁ってみようと思った。

fusako.hatenablog.com

 

近所の田村書店角田光代を探したけど親子モノはあまりなく、ひとまず「かなたの子」は購入。

かなたの子 (文春文庫)

かなたの子 (文春文庫)

 

 

裏表紙を読んだ感じは面白そうだったのだが、表紙があまりにもおどろおどろしいのでちょっと腰が引けて、とりあえず内田樹の本があったのでそれと(内田樹の、ジャンルをまたがって物事を関連づけるモノの考え方が好き)、あとたまたま目に入った湊かなえを購入。

湊かなえの方が読みやすそうな感じがしたので、こちらからスタート。

 

 

母性 (新潮文庫)

母性 (新潮文庫)

 

 湊かなえ「母性」

 

スローリーダーな私が、勢いで1日で読みきった。…というか、1日で読み切らないとしんどすぎて再開できないと思った(笑)

 

女子高生が飛び降り自殺を図ったという新聞記事から、物語は始まる。

悩みがあったようには見えない女子高生と、「愛能う限り、大切に育てた」と涙を流す母親。

「愛能う限り、大切に」育てるというのは、どういうことか?そんな思いで子育てに臨む母親の元で、なぜ少女は死を図らねばならなかったのか?

その疑問を一つずつ解き明かすように、母親目線でつづられる「母の手記」と、娘視点で語られる「娘の回想」が、時系列を追うように交互に語られていく。そこで、かなり内面の歪んだ母親と、そんな母や家族の性質を受け継いで強く生きようとする娘の、心のすれ違い、取り返しつのつかないボタンの掛け違いが、明らかになっていく。

 

レビューを見るとだいたい「母親がウザい」という感想が多い(笑)

確かに私も読めば読むほどこの母親にはドン引きしたが、しかしありえない話でもないし、端から見ればよく頑張るいい嫁に見えるというのがまた世の中簡単にいかないところ。

全ての母親が、母親になる準備が整った上で母親になるわけではない、というのも現実を突いていると思った。そもそも「妻」になるという時点で、「娘」「女」という肩書きにある程度の見切り、諦めをつけなければいけない(人妻たるものがやってはいけないこと・やるべきこと、という社会通念が存在する)。「母」になるということは、「娘」「妻」「女」という肩書きを追いやって、「母」という肩書きに身を置くことだ。自分が可愛がられる段階は終わるし、誰かから一番大切にされることに全力を注いでいる場合ではなくなる。

別に女性だけでなく、男性も同じように「息子」「夫」「父」「男」という肩書きに馴染んでいく必要はあるし、家庭に限らず、組織の中で「先輩になる」「部長になる」「課長になる」という立場の変化に自分を順応させていく必要にもかられるだろう。しかし、それがうまくいかないと、良き先輩、良き上司とは言われない。

 

小説の最初の方で、

母性は人間の性質として、生まれつき備わっているものではなく、学習により後から形成されていくものかもしれない。(p.70)

という一文がある。これには「なるほど」と思った。

 

母親の自覚とか、母性があるかとか、母親たちは子供をうまく可愛がってあげられない時に悩んだりするんだろうけど、そもそも「母性」というものが、人間が立って歩くように時期がくれば自然と出てくる性能などではないのかもしれない。

例えば上級生が「自分の先輩がしていたことを自分も」と思う中で先輩らしく振る舞うようになったり、会社で部長になった人が「部長になったからには」と自らを律する中で良い上司として成長していく、それと同じように、先達を見、周囲の空気を読み、求められていることを察し、自らを律することで「らしく」なっていく。(女らしさ、男らしさもそうだろう。)「母性」もその一つでしかなく、うまく空気を読んで期待に応え、自制する中で「母性のある母親らしく」振舞っている、ただそれだけの話かもしれない。

だから「母親」をうまくできない人でも「自分に母性がないのでは…」と悩むことはないのではないか。上級生になったけど、下級生よりもゴールが下手なことはあるかもしれない。部長らしくいようと思っても、スキルが足りないこともあるかもしれない。母親になって、先達に学び、周囲に気を配っても、どうにもならない不得手もある。キャパもある。それは母性が欠けているからと言うよりも、世間で言われる「母性」という漠然とした概念に、自分がどこまで合わせていくか、ということでしかない。

逆に、母親に世間が求めることを理解できない人、世界が狭くて社会通念が通用しない人は、この小説の主人公のような「お嬢様」「歪んだマザコン」としか映らない。

それだけのことだ。

 

 

さて、小説の感想。※以降ネタバレ

・最初の「娘の回想」でを読んだ時、まるで自分のことを語っているのかと思って驚いた。私にも「あそびがない」。周囲の目を気にしすぎるあまり、子供らしい振る舞いができない。私の場合は第二子だったので親にもあまり目をかけられず、手のかからない良い子だと扱われたことが私のゆとりをなくしていた。一方で、成長するにつれて正論を主張するようになるこの娘の姿を見て、集団の中で自分が切り捨てられることがないという自信があるから声を上げることができるんだと思い、だからこの子は大丈夫だわ、と頼もしく思った。

・たこ焼き屋の「りっちゃん」は途中で気づいたけど「ヒデって誰だっけ?」と思っていて、読後に解説をググって英紀のことだとわかってすっきり。この一家も、なんやかんやで姉妹同士で支え合いながらやっていて、よかった。

・第三者かと思った高校教師が実は娘だった、という仕掛けは面白いけど、でも偶然にも二人の母親が「愛能う限り」なんて表現を使うというのはちょっと無理があると思う。聖書の表現というわけでもないようだし…。

・他の人のレビューを読むと、第三者のような教師が「男かと思った」という人が多かった。私は、母性なんてものに思いを馳せる時点で女だろうと高をくくってたのでそこはつっかからずに読めた。

 

自分の過去の書籍・映画レビューを見ると、その時はわーっといろいろ感じるのに、今では内容もほとんど覚えていないものが結構ある。

主人公の母親のせいでそこそこ胸糞の悪い作品ではあったので(笑)、これも早く忘れてしまってもいいな、と思う。

【書籍】「わかる、わかるよ…!」ってなってしまった2冊

今年に入ってから「セックス・アンド・ザ・シティ」をhuluで全話+映画2本まとめて視聴した。 huluがあってよかった。ツタヤレンタルで全話視聴は、当日返却を頑張ったとしてもツタヤ破産してしまう。


セックス・アンド・ザ・シティ 2 [ザ・ムービー](吹き替え) (予告編)

www.hulu.jp

 

1シーズン12話〜 × 6シーズン、全94話あるので大変なものだったが、英語の勉強にもなるので作業用BGMがてら流し見ていた。SATCがいかに英語の勉強になるかはまた別の機会に語るとして、やっぱりアラサー女にはこの4人の個性際立つ主人公たちの生き様はビシバシ刺さってくる。

全話完走して、映画も2本(これもhuluで)観たらSATCロスに襲われた。ループするにも、なんかもう94話もあるとどっからループしたらいいもんだか分からなくなるので、「これを観た人におすすめ」的なので上がっている「デスパレートな妻たち」にも手を伸ばす。

www.hulu.jp

 

こっちは飛び抜けて登場人物がクレイジーなので、2シーズン完走してからはちょっと休憩中。

 

SATCもデスパレートな妻たちも、どちらも「4人の女たち」の話だ。

4人はそれぞれ全く違うベクトルの性格で、でも互いに打明け話をしたり時に勘ぐりあったりする仲間でもある。

彼女たちの、夢見る乙女な一面、リアルでシビアな一面、サバけていて甘え下手な一面、いつまでも輝いていたい一面を見て、歳の近い女たちは共感し、彼女たちの幸福を祈らずにはいられなくなる。

同じ構造が「東京タラレバ娘」にも見られる。

 

そう、大人になると、「共感」を作品に求めるようになる。

「わかるわかる」「そうそう、そうなの」「でもどうしようもないの」と頭を縦に振れば振るほど、作品にのめり込んでいく。

どういう性質の人が、どういう過ちを犯すか、どんな困難にぶつかるか、私たちは経験則で知っている。しかしそれを乗り越えてなんとか大人になってきた立場から、物語の登場人物たちもどうにか乗り越えて、乗り越えないまでもそれはそれとしてしぶとく生き延びていく様を固唾をのんで見守ってしまう。

あの人ほど自分はひどくない、とか、あのキャラのこういう点とこのキャラのこういう点を私は持っているな、とか、あの人はこのキャラにそっくり、とか、知っている人間を登場人物に当てはめては、「もしかしたら自分にも起こったかもしれない」物語に思いをはせる。こんな時、自分ならどうするか。あの人なら、こんなことをするだろうか。

 

子供の頃、胸が熱くなった作品は「憧れ」だった。

例えば学園もののドラマなんかで、不遇を嘆いて非行に走る生徒を教師が熱くたしなめるシーンに涙を流したのは、大人にうまく意思表示ができない自分がかけて欲しかった言葉が、そこにあったからだ。

不治の病を知っても愛を貫く男女の物語に胸を奮わせるのも、自分もいつかそんな不変の愛を知りたいという、未来への希望をそこに見るからだ。

大人になれば、そういう話は「ドラマの世界だ」と割り切れてしまう。白馬の王子様はいないことは知ってしまうし、「幸せに暮らしましたとさ」というのも嘘っぱちだとわかる。「シンデレラ」も「王子と結婚」という人生のピークで終わっているからハッピーエンドなのであって、育ちも生活様式も違う者同士が一緒に住むなど数年もすれば価値観や金銭感覚の違いがあらわになって関係が綻んでいくに決まっている。

 

むしろ、大人として自立したその先にある悩み、苦悩。子供の頃思い描いた「大人」ならば絶対にしないであろう幼稚な妬みや意地っ張り。大人の世界には「めでたし、めでたし」なんてないのだ。めでたくなくても、それでも生活はただ続いていって、問題は消えずにただそこにあって、自分はただ生きていくしかなかったりするのだ。

そんな「大人の事情」に、「そうそうそうそう…」と思ってしまうのが、この作品。

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

 

 西川美和永い言い訳

映画化されたけど、そっちはまだ観てない。

 

妻を失った小説家の主人公が、同じく母親を失った家族と交流する中で変化(成長、とは言い切れないのがまた大人の世界)していく話。

この主人公の男性の、中身がお子ちゃまなまんま!の中年男というのが、「いるいるいるいる…」「うわー、あるあるあるある…」という、自らの共感というよりは「男性あるある」感ハンパなくて、実際にこんな人が身近にいたら蹴飛ばしたくなるんだろうけど、読んでいると不思議と清々しい気持ちになってくる。清々しいほど、「いそう」「ありそう」なのだ。この主人公のあらゆる行動と心情が、「こういう人ならばこうするであろう」道順をしっかり沿っていて、そのリアリティにあっぱれなのだ。

 

そのリアリティに感服して、西川美和の本を他にも読みたいと思ったが、映画監督なのであまり小説は出していないんですね。書店で見つけられずがっくし肩を落としていたところ、目に入ったこちらの本を読んでみた。

 

森に眠る魚 (双葉文庫)

森に眠る魚 (双葉文庫)

 

 角田光代「森に眠る魚」

 

意識していなかったけど、帯をよく見たら、アメトーークの「読書芸人」でオードリー若林が紹介していた本だった。

さてこれが、冒頭紹介した「4人(前後)の女たちの物語」のラインナップに並ぶ、アラサー女にはたまらない小説だったのだ。

 

幼稚園前後の子供を持つ4人のママ(+サブ的なもう1人)たちが、子供の教育方針や、夫・家族との関係、生活に求めるもの、夢見たこと、それぞれバラバラで、それぞれ微妙に偏屈なんだけど、でもものすごく「ありそう」「自分もある意味こうかもしれない」と思わせる。ママたちの輪郭はとてもざらついていて、立体感がある。

 

角田光代はそういえば「八日目の蝉」「紙の月」は読んだことがあった。これらにも「こういう人って実在しそう」というリアリティがあるが、ただこれらはもう少しセンセーショナルな事件が展開していく話なので、フィクションのサスペンスとして読み進めてしまえる。

でもこの「森に眠る魚」は、自分の少し先の未来かもしれない(人によっては「自分にもありえた過去」かもしれない)すぐそこに息遣いを感じる、鼻息が自分の頰にかかってくる、そんな不気味な実在感がある。それは多分、私の年頃や環境にとってこの小説のプロットがあまりに卑近だからそう感じるのだろう(他の属性の人ならこれこそ「フィクション」だと感じるかもしれない。)

 

それぞれに少しずつ偏ったところのあるママたちは、その偏りゆえに徐々に道を狂わせていく。小さな糸のほころびがやがて大きな穴になってしまうように、どんどん元の道から外れていってはしまうのだが、しかし、大人の私たちはその「どん底」が人生の終着地でないことを知っている。穴が綺麗にふさがってハッピーエンドになることなどありえないが、穴が空いたなりに、時間は過ぎ、生活は続き、子供は成長し、人々はそれぞれの人生を進めていくしかないということを知っている。

 

子供の頃の私は、それを絶望的だと感じたかもしれない。

でも大人になった私には、それこそが最大の「希望」なのだ。

 

全ての悩みや苦しみ、問題は解消されるものだと、ある日王子様が現れて全く不足のない満ち足りた世界に連れて行ってくれるものだと思っていた子供時代には思いもよらなかった、大人が生き延びていくための希望、それは「知恵」と呼ぶのかもしれないし、「諦め」というのがふさわしいのかもしれない。

そうやって生き延びていく大人たちの物語が、糸のほころびをどうにもできないままにまた明日がやってきてしまう私たちの未来に、ほのかな光を当ててくれる。