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【雑記】関西空港 Nintendo Check In でも任天堂の人は神対応だった話

たまたまこのニュースを見て、

Switch無料で遊べる「Nintendo Check In」 関西国際空港にオープン - ITmedia NEWS

 

奇跡的に今回の海外旅行が関西空港発だったので、早く出て体験しよう!!と勇んで行った。

 

東京でトランジットがあるので関空には出発30分前くらいに行けば良かったのだが、混んでた場合に試遊の待機列に並ぶ時間および空いてた場合に永久に試遊する時間を見越して2時間前には空港に着きチェックインを済ませる。

 

国内線搭乗口からは国際線の到着ロビーはちょっと行きにくいけどなんとか探しだす。

 

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あるわあるわ

 

夜だからか、やけに空いている。これは遊び放題かしら。と思いきや、

 

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あれ?

 

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 閉まってるんかーーーい

 

残念。そらいくら空港でも夜までやってるわけがなかった。

それにしても残念なので、スタッフの方がたまたまブース外に出て来たので話しかけてみたら、試遊時間は10:30〜17:30とのこと。

ていうかよくよく見たらサイトに書いてた。ウェブ検索したらPR記事ばかりがトップに上がってくるので、公式サイトを見ていなかった。

関西国際空港にゲーム体験スペース『Nintendo Check In』が6/23よりオープン! 国際線到着通路ではマリオファミリーのお出迎えも! | トピックス | Nintendo

 

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立体マリオの写真撮影は、ブースの外側なのでいつでもできます

 

営業時間外にわざわざ話しかけてくる人間はよほど奇特なようで(荷物預けた後で軽装だったし)、最初「近所に住んでるからわざわざ来た任天堂ファン」だと思われたようでした。

 

よくよく考えたら、既存ソフトの試遊なんて試遊台のある近所の電気屋にでも行きゃいいんだものね。普段そういうところに行く習慣がないから気づかなかった。

でもね、いい大人が電気屋のキッズに混じってコントローラー握りしめるなんてできないし、空港に行くついでと旅行のちょっと非日常なテンションじゃなきゃ、人前で試遊しようなんて思えないのです。

 

あまりにも私が不憫に見えたのか、もう奥に片付けてたうちわの余りをくれました。お兄さん、優しい。

(これをくれる時も「今から旅行なのに荷物増えますよね」って気遣ってくれたけど「いえ欲しいです」って強く押した。)

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「旅行から帰った時にぜひ寄ってください」って笑顔で別れたけど、ごめんお兄さん、本当は私、帰国は伊丹空港にしてしまった……。

 

 

試遊予定の2時間を持て余したので、任天堂×関空コラボの写真撮影にいそしんだ。

 

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2階から見たブース

 

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エスカレーター側の壁が1番フォトジェニック

 

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エレベーターもNintendo

 

現場からは以上です。

搭乗口に進みます。

【雑記】被害者の「自己責任」と口をついて出ないために

詩織さんの告発をきっかけに、にわかに話題になったレイプ問題。

 

 

この問題が話にのぼると必ずと言っていいほど言われるのが「自己責任論」。わいせつ被害にあう人は、それを誘発するような格好をしているのではないか、というもの。

 

私は一部、この論には賛同するところはある。身なりや行動を意識することで、全ての被害は防げないものの「被害にある確率を減らす」ことはできると思っている。そして、私のように「被害にあう確率を減らすように予防している」人が、予防していない人に対して「だから被害にあうんだ」と非難するのはたやすい。

 

さらに、こと性犯罪・わいせつ行為においては「被害にあう女性=見ず知らずの人の性欲を掻き立てられるほどの魅力に溢れている」のではないかという暗黙の前提があるので、さらに被害者に対する色眼鏡を排除しづらくなってしまう。

先日、情報バラエティ番組で痴漢問題を取り扱っていた時に、司会者が冗談交じりに中年女性のコメンテーターに「あなたは被害にはあわないと思いますけど」と振り、女性の方も「それが私、久々に痴漢にあったんですよ!」と話にノって会場を沸かす場面があった。それまで真面目に議論していた雰囲気から一転、宴会で「モテ・非モテ」をネタに騒ぐノリになってしまい、まさに生放送中に堂々と行われたセカンド・レイプで笑いが起きているその様子こそが、この問題で「邪念・邪推を排除する難しさ」を語っているようだった。

 

私自身も長く被害者に対する偏見を排除できず「予防しなかった自己責任」とまず頭に浮かんでしまう人間だったのだが、しかし冷静に考えればやはり問題は加害者にある。加害者がいなければそもそも予防をする・しないという話にもならないのだから。

 

この「予防を怠った人間に何ら非があるわけではなく、断罪されるべきは加害者である」というのをどう自分に納得させようかと考えた時に、思いついたのが「カツアゲに置き換える」という方法である。

 

街で不良に絡まれたり、路地裏でカツアゲにあい「やすい」人というのがいる。

典型的には、細身で色白のもやしっ子。筋力や戦闘力はおろか逃げ延びる脚力もなさそうで、少し凄んで見せれば震えながら財布を差し出し得るか弱い少年(青年でも中年でもいいけど)。

 

そんなもやしっ子に対して、「情けねえ男だなぁ」と嘆息することはあるかもしれないが、「その貧弱な体が、相手にカツアゲしたくさせるんだ」「武道を習えばいいのに、そうしないお前が悪い」とまで責める人はいないだろう。武道や護身術を習う時間を文化活動に当てることは決して悪いことではあるまい。あくまで悪いのは「弱者の被害の上に不当に利益を得ようとする加害者」の性根の悪さ・卑怯さである。

 

それと同じで、性犯罪・わいせつに関しても、被害にあい「やすい」人がそこにいるからといって、弱者をいじめようとしてはならない。それはやはり卑怯な加害行為として罰せられるべきであるし、被害者には「非はない」としてしかるべきである。

 

 

 

 

 

と、ここまで言っても「とはいえ予防する方法はあるはずだけどね」とは思う。

尻ポケットに長財布を差して歩いている男性なんかを見ても思う。

 

 

 

【映画】セッション ー 師匠との出会い、そして巣立ち

映画「セッション」をみました。 

ドラマーの端くれとして見ておかねばならない作品。(と言っても割とながら見だったのですが。)

 

音大に通うドラマーの主人公が、名匠が指揮するバンドにウキウキ加入するも、その名匠がとんでもない二重人格者(※個人の印象です)で、その有刺鉄線のような鞭とちょっとの飴に翻弄されながら文字通り血と汗の特訓をしていく作品。

ちなみに「セッション」というタイトルから、文字通り二人で即興二重奏でもするのかと思ったけどそうではなく「指揮者と演奏家」のセッションということだった。

 

事前の評判でスパルタ特訓だということは知っていたけど、それにしてもここまでとは思わなかった。限界を超えても叩き続けて手が血まみれになっていく様はちょっと見ていられない。何より、師匠に無理やり叩かされているのではなく、主人公が自ら、師匠に認められたい一心で血まみれになっても叩くのをやめない様はまさに狂気を感じた。

中盤、本当に人としてちょっとヤバイぐらいドラム狂になっていく主人公が、見てて痛くて痛くて仕方がない。

なので痛々しいのが苦手な人にはあまりオススメできないけれど、でも個人的には期待していた以上に素晴らしい作品だった。

 

 

少し話はそれるけど、内田樹さんの唱える「親族の基本構造」の考え方がある。

親族の基本構造 (内田樹の研究室)

こちら以外の文章でもこの考え方については触れておられるが、ネットで見つかったのはこれだった。この考え方が私にはとてもしっくりきていて、何かとこれについて思い起こすことが多い。

こちらの文章から引用させていただく。

タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。

 

「タイプの違う二人のロールモデル」。

大抵、そのうちの一つは「親」になる。さらにもう一つは、親戚のおじさんであったり、教師であったり、師匠や監督であったり、教会の牧師さんであったり、はたまたもう一つには出会えないままだったりする。

 

「セッション」をこのモデルに当てはめてみれば、一つ目のロールモデル「音楽ゴコロがちっともない家族たち」、そして二つ目のロールモデル「二重人格のスパルタ師匠」である。

スポーツ一家で、音楽の道を志すとはどういうことかを真に理解し導いてくれる人が家族の中にはおらず、居心地悪く感じている中で出会った憧れの師。

理解のない家族から反発する勢いで、主人公は師匠にどっぷりハマり込む。どこまでいってもイマイチ自分のドラムを評価しれくれない親兄弟は放って、スパルタ師匠に評価してもらうことが自分の存在理由の全てになる。師匠にすがりつく動力があまりにもすごくて、可愛くて非の打ち所のない彼女のことも切り捨て、自分の健康な体や健全な社会生活までも切り捨て、気まぐれな師匠に捧げ込む。そんな彼の痛々しい狂気が、冒頭に触れた血まみれドラム狂状態である。

 

しかし、彼は決して、師匠に全てを捧げて人生を棒に振るようなことにはならない。

「家族」という極から全力で反発し「師匠」へと振り切ったメーターは、再び「家族」の存在によって「自分」を取り戻す。「家族」の元には甘んじないが、「師匠」だけが目的ではない。そのことに気づいた主人公は、「家族」も「師匠」も乗り越えて、一人の意志あるドラマーとして、自立した人格のある人間の一個体として、家族と師匠に対峙する。

二人のロールモデルを乗り越えた先に、彼の、彼だけのドラミングを手に入れる。

その瞬間が、圧巻のラスト・ドラムソロだ。師匠と弟子の上下関係ではなく、別個の意志ある「二人」のドラマー同士の見事な「セッション」

 

107分の間に、この「第二のロールモデルとの出会い」から「二つのロールモデルからの巣立ち」が見事に凝縮されている。

 

これは単純な「スパルタ師匠のお陰でスーパードラマーになった」というスポ根映画ではない。一人の青年が心身の葛藤の末に自我を獲得するその成長の過程を追う、壮絶な、そして学ぶべきことの多いヒューマンドラマである。

 

 

 

 

【社会学】思想のユートピアとしての本屋

ここ数日、某、反韓書籍が発売されたことがネット上で話題になっている。

 

先に明確にしておくと、私自身は、読んでもないけど「このタイトルは酷いな」と思っている。(どうやら、中身はそういう内容ではないらしいですね。)

 

ただしネット上で「本屋はその本を売るべきではない」という声がいくつか見られたことには、私は「否」だ

 

売るべきではないという人の根拠として

・平積みする行為は差別扇動と同じ

・料理店が自分が美味しいと思わない料理を出さないのと同じように、本屋も勧められない本を置くべきではない

・本屋は公共性の高い場所なのだから、韓国人の子供達の目に触れる可能性がある。彼らの気持ちに配慮すべき

などなど。

 

一方で共謀罪とかで言論統制を恐れる声が上がっているけど、

上記のうねりは、「民主的な言論統制と言えないだろうか。

 

平和で自由で平等な世の中を実現するためには、こんな思想は間違っている。こんなことは思ってはいけない。それを描写した書籍を発行したり、それを書店で販売したりしてはいけない。

美しくて柔らかくて優しいものだけを本屋に並べることで、自由で平等な思想・表現は実現されるだろうか?

 

本屋が人々の思想・知識を育てる役割を担うものであるならばこそ、

公共性が高く老若男女がアクセスできるものであるならばこそ、

本屋はとびきり自由でいなければならない。

経済活動や政治動向から逃れて、あらゆる思想、あらゆる表現を許す場所でなければならない。(書籍が定価販売されるのも同じ理由だ。)

 

反韓の書籍を並べた書店やネット上で、周囲がどういう反応をするのかを見て、人は「このタイトルが人に与える影響」を学ぶだろう。確かにこのタイトルで傷つく人はいるかもしれないが、同じ本屋に韓国を賞賛する書籍が並んでいれば救われる人もいるかもしれない。同じテーマで、これだけ考えが違う人がいるんだ、というその事実こそが学びになる。

思想・表現の両極に振れることで知識が、世界が膨らむ。

書籍そのものだけではなく、それをどんな人が手に取っているのか、それを読んで自分が何を感じたのか、他の人が何を感じるのか。一冊の本を通して社会や自分との接点を増やしていくことで、自己認識は深まり、世界への視野が広がる。

 

それが知の宝庫、思想のユートピアとしての本屋の理想の形だ。

だから「自分がこの本のタイトルが嫌い」ということと、「この本を本屋が売る」ということは、切り分けて考えなければいけない。

【雑記】「世界の日本人妻は見た」の世界は狭い

こんな記事を見つけた。

www.madameriri.com

 

テレビ局批判は今や珍しくないけど、

自分も「これは…?」と思った番組だったので、つい気になった。

 

世界の日本人妻は見た!MBSで火曜日にやっているバラエティ番組。

外国に住む日本人の視点から、日本との違いを面白く紹介する。

現地で場当たり的に日本人を探し、海外に住んで驚いたことを教えてもらう。そのコメントを元に検証、実際にその場面を映像で紹介していく、というスタイル。

 

私は数回しかこの番組を見たことがないし、見るときもながら視聴だけど、やってると見ちゃうしわりと楽しんでいる。

日本人探しの行き当たりばったり感はリアルだし、その後の検証でも気になることは周辺情報まで調べられていて痒い所に手が届いている。取材スタッフは優秀なんだろうなー!と毎度感心する。

 

しかし一方で、ん?と思う瞬間が時々ある。

 

冒頭紹介した記事の筆者は、毎週欠かさず見るほどのファンだったが、だんだんと不快に思うようになり、観るのをやめたそう。

この方の番組に対する指摘は主に2つ。

1. (外国の紹介の仕方が偏っていて)ステレオタイプの刷り込みにより海外を“知った気になる”ということ

2.「世界から見た日本」という観点が無視され、あたかも日本が世界のスタンダードであるのような伝え方

 

前者に関しては、私はそんなに問題とはとっていない。

地域における「スタンダード」を知っておくことの利点は多い。マジョリティの性質を学ぶことは、エチケットやマナーを学ぶこととさして変わらない。

多くの人はそうだと知っておくのはいい、けどそうじゃない人もたまにいる。それだけのこと。(スタンダードを知った上で個別の状況にどう対応するかは、その人の知恵と経験による。)

 

しかし後者に関しては「私と同じように違和感を持つ人がいたんだ」と正直安心した。

 

私の印象では、VTRは割とフラットに「(ポジでもネガでもない)驚き」という視点で作られているけど、それに対するスタジオの反応が偏っている。

 

日本に比べておおざっぱだと「えーっ、汚い」

日本に比べて不便だと「こんなの無理」

 

私が最も不快感を覚えたのは、南米の国を取り上げていた回。

南米のとある国では(確かアルゼンチン)、パンは中をほじくり出して外側だけを食べる。あとテーブルに落ちたパンくずはパンをちぎってそれで拭き取る(それは食べずにお皿へ)。

それに対して、スタジオでは「中の柔らかいところが美味しいんじゃないか」「中が生焼けなんてことはない」。

それをVTRを見ながらやるのならまだよかった。スタジオに呼んだ外国人(1人)に実際にやらせて、普段通りにパンを食べるその人の目の前で「ヤダー」と汚いものを見るような反応をするのは、集団で1人を叩くいじめみたいで見ていて気分が悪かった。

 

日本人に対してそれをするのは分かる(にしても言い方はひどい)。好みは人それぞれとはいえ、スタンダードを知識として持っておくために「一般的にはこうなんだよ」と教えてあげることで、助かる人もいるだろう。

でも外国の人に自分の国を紹介させておいて、日本の常識を当てはめどうこう批判してどうなるというのか。

地域の習慣は、そこの歴史や文化に根ざしている。

それを無視して、日本の文化的背景に照らし合わせてアリ・ナシを判定してもなんの意味もない。

 

なにより、知名度があってきっと海外ロケなどで世界と触れる機会もあるであろうMCやコメンテーターたちがそんなことをしているのに驚いた。

番組を少しでも刺激的にするためなのかもしれないが、もしそうなら、番組の視聴率稼ぎよりも芸能人としてのキャラや評判を考えた方がいい。

 

 

繰り返しになるけれど、習慣とは、文化であり歴史だ。

ある人の好みや習慣を批判することは、 その人の育ってきた文化、その地域の歴史、環境、その人の家族や人生を否定することだ。

その人を通して自分が世界とつながっているのだという感覚を持っていれば、やすやすとその人を頭ごなしに否定することはできないだろう。

ある人を見て、その先にある世界に想いを馳せる。

そこから、異文化の尊重・他者への理解が生まれると思う。

 

そういう意味では、最近ネットを賑わせた「ポテトは学生気分」問題にも、ある種通ずるものを感じる。

news.nifty.com

 

 

ところで、その「世界の日本人妻は見た!」のスタジオ内の批判的・同調的な空気の中、おずおずとでも「オレはこの方がいいなぁ」と言えるのが出川哲朗

ポンコツ芸人が、ポンコツキャラゆえに多数派に流されず空気を変えてしまえる。みんなが固定観念に囚われて見失ったことを言ってしまえる。出川さん、かっけえ。

これ、「地域を変えるのはよそ者、若者、ばか者」とよく似た構図。これについてはまた別の記事で書こうと思う。